ここではまず、〈名詞〉を体系的に分類することで、学校英語の5分類に対処する前提を確認しておきたい。
まず、〈名詞〉の分類に関する、我々の立場を明示しておく。それはすなわち、〈固有名詞〉と〈一般名詞〉の「態度的区別」であり、ついで〈可算名詞〉と〈不可算名詞〉の「単位的区別」、以上2つの区別を組み合わせた分類である。
日本の学校英語では、伝統的に5種類の「意味的分類」が用いられてきた(普通名詞・集合名詞・物質名詞・抽象名詞・固有名詞)。これは、それぞれの単語が日本語の語感とどういう点で異なるかを整理するためには有用であるが、あくまでも「意味的分類」である。これを誤って「文法的分類」として説明する学習用文法書が後を絶たない。この学校英語の誤謬をひとつひとつ指摘したうえで、学校英語の5分類の順番で「文法的説明」を試みることにする。
まず〈名詞〉は、〈固有名詞〉と〈一般名詞〉に分けられる。ただし、ここでいう〈一般名詞〉は、我々がここで行う「英文法作り」においてのみ有効な言葉使いであって、一般的に流通している用語法ではないことに注意して欲しい。
〈固有名詞〉と〈一般名詞〉の違いは、機能的でも意味的でも文法的でもない、根源的な区別である。次元が違うといってもいいし、位相が異なるといってもいい。私は、この違いを、個物に対する「態度」の違いであると考えている。ゆえにこれを〈態度的区別〉と名づけたい。
〈固有名詞〉とは、例えば:
のような、特定の個体(individual)につけられた名である。これに対して、〈一般名詞〉とは例えば:
のような、個体群に共通する成分を抽象化し、グルーピング(grouping)したときの、そのカテゴリー(category)の名である。
このようにいうと、〈固有名詞〉と〈一般名詞〉の違いは、「種と類」あるいは「特殊と一般」の違いであるかのように聞こえるかもしれない。しかしそれは誤っている。
私の目の前に、KOKUYOの消しゴムがある。この消しゴムは、何の変哲もない、大量生産品の消しゴムである。誰かが誤ってこの消しゴムを食べてしまったとしよう。私は怒って返してくれと頼むだろう。相手は同じ品番の同じ消しゴムを買ってきて、私に渡すだろう。それで「被害は回復」ということになるだろう。しかし、「この消しゴム」は回復されていない。「この消しゴム」と「その消しゴム」はどんなに似通っていても、別の消しゴムであり、「同じ(same)」ではあっても「同一性(identity)」はないのだ。
このような代替不能性は、「この消しゴム」というときの、「消しゴム」のほうには宿っていない。「この(this)」のほうに宿っている。こうした「この」の性質を「この性(this-ness)」という。
「タロウ」と名付けられた「犬」を考えてみよう。「犬」は「哺乳類」の一種である。したがって「犬と哺乳類」は、「種と類」ないし「特殊と一般」の関係にある。「哺乳類」は「動物」の一種である。また「動物」は「生物」の一種である。この〈特殊〉から〈一般〉への抽象化のプロセスは、ツリー状になされるといってもいいし、階層的になされるといってもいい。論理学の記号で書くならば、〈犬⊃哺乳類⊃動物⊃生物〉ということになるだろう。
「犬」はさらに、「秋田犬」や「柴犬」などに分類できるし、〈形容詞〉で修飾すれば「黒い犬」「白い犬」「大きい犬」「小さい犬」などと無限に分類できる。しかし、「犬」というカテゴリーを無限に分析していっても、「タロウ」にたどり着くことはない。現実世界の「犬」カテゴリーを無限に分析していけば、「柴犬でオスで9kgの重量があって第n染色体にaという遺伝子配列があって……である犬」と、その個体(ここでは「タロウ」)を一意的に指し示すことができる「属性」を並べていくことができる。しかし、どこまで分析しても、「タロウ」という成分は抽出されない。「犬」のなかに「タロウ」は存在していないのだろうか。
仮に、「タロウ」と完全に遺伝子の塩基配列が同じ犬を連れてきて、「今日からこいつがタロウだ、かわいがってくれ」といわれて、私は納得できるだろうか。おそらくできない。見た目も声も、においも仕草もまったく同じであっても、「あの・例のタロウ」の代わりをすることはできない。
〈固有名詞〉で呼ばれるところのものの、こうした性質は、明らかに異質である。こうした代替不能性、〈一般―特殊〉の連続体(series)からは、つねにはみ出している性質を〈単独性〉(singularity)という。
これからさまざまな〈名詞〉について学習していくが、〈固有名詞〉を除いて、すべて〈一般―特殊〉のセリーに属している。その意味で、〈固有名詞〉だけは異質である。この違いはどこからくるのだろうか。
「この消しゴム」の話に戻ってみよう。「タロウ」の代替物を連れてこられても、私は納得ができないと感じる。一方、おそらく消しゴムは買い換えることで、納得ができ、「被害は回復した」と感じることができるだろう。これは個物に対する「態度」の問題であるように思える。決して「消しゴム」という〈一般名詞〉で呼んでいることから生じているのではない。「この消しゴム」と「この」を使うだけで、代替不可能になったのだから。
ある男が失恋したときに「女は他にいくらでもいるじゃないか」と慰めるが、こういう慰め方は不当である。なぜなら、失恋した者は、この女に失恋したのであって、それは代替不可能だからである。この女は、決して女という一般概念(集合)には属さない。〔…しかし〕このように慰めるほかないかもしれない。失恋の傷から癒えることは、結局この女を、たんに類(一般性)のなかの個としてみなすことであるから。(柄谷行人『探求II』)。
そこで、我々が作ろうとしている英文法において、〈固有名詞と一般名詞〉の端緒の区別を「態度的区別」と呼ぶことにする。ただし、このことは、〈固有名詞〉が他の区別(次に説明する〈可算と不可算〉の区別など)から免れていることを意味しない。〈固有名詞〉を〈可算名詞〉のように扱う事例については第8節を参照して欲しい。
英語の名詞には「数えられる名詞」と「数えられない名詞」とがある。前者を〈可算名詞〉といい([C]と略す)、後者を〈不可算名詞〉という([U]と略す)。
日本人が英語の学習においてもっとも苦手とする分野が、この「〈名詞〉の可算・不可算、およびそれにともなう〈冠詞〉の扱い」である。〈冠詞〉は、品詞としては〈形容詞〉の一種であるが、〈名詞〉の〈単位性〉を規定する働きを備えており、〈名詞〉と不可分の単語である。我々が〈冠詞〉と〈名詞〉を、同時に扱っている理由も、ここにある。
日本人にこれがわかりにくいのは、ひとつには、「可算」という呼び方(これはcountableを訳しただけで、翻訳者には罪はないのだが)が誤解を招いているのではないか、と思う。日本人が「数えることが可能である」というとき、「我々人間がそれを数えあげることができる」と理解してしまう可能性がある。
coffee(コーヒー)という〈不可算名詞〉を考えてみよう。通常、学校英語では、「コーヒー」を数えるときは「カップ一杯のコーヒー」(a cup of coffee)と、〈単位〉になるほうを〈可算名詞〉として使い、two coffeesは誤りである、と習う。そしてさらに(これもまた混乱の一因であるのだが)「レストランなどで"Two coffees, please."というのは自然である」と、「口語英語」の例外が注意書きとして付加される。
また、少し後で〈抽象名詞〉で触れることになるが、equipment(装置)のような、日本語の語感としては「数えられそうな」「実際に我々が日常的に数えている」〈名詞〉が、英語では〈不可算〉である、などと習うと、「英語という言語はほとんど理解不可能である。英語ネイティブの世界観は、我々日本人には共有することができない」と感じてしまう。
まず、〈可算と不可算〉という区別を、「数えられるのか、数えられないのか」という区別として考えるのをやめることから始めよう(あとでこの考えに戻ってくることにするとしても)。むしろ、数えていいのか、いけないのかという、かなり強い、強制的な「規範」として考えてみればよい。さらに、(こちらのほうが文法的には合理的なのだが)数えることで、結果的にその名詞が意味を為すのか、為さないのか、そして意味を為すとしたら、どのように振る舞うのかという観点から、〈名詞〉を扱ってみよう。
stone(石)は、coffeeと同様、学校英語では〈物質名詞〉として分類される。これは「意味」のうえでは間違ってはいないのだが、学校英語のよくないところは、「物質名詞だから数えられない」と断定するところである。物質を数えては、なぜいけないのか。そもそもstone(石)は〈物質名詞〉だが、throw a stone(石を投げる)というときには〈可算名詞〉として扱っているではないか。投げるときに、stoneは突然、〈物質名詞〉ではなくなるというのか。学校英語では、この疑問を回避するために、「『石』を意味するstoneは〈物質名詞〉で〈不可算名詞〉であるが、『小石』を意味するstoneは〈普通名詞〉で〈可算名詞〉である」などと苦し紛れの説明をすることが多い。これは大間違いである。人間を中心に考えれば、確かに、手のひらにのって、自由に投げつけることができるstoneは「小石」といいたくなるだろうが、巨人が現れて、人間から見たら「小石」とはとてもいえないような巨大なstoneを投げていても、これは〈不可算名詞〉ではなく〈可算名詞〉である。
ここで、〈可算名詞〉であるときのstoneと、〈不可算名詞〉であるときのstoneの、文の中での「振る舞い」を見てみよう。
1つめの例文では、stoneは典型的に〈物質名詞〉として使われている。「材料」を表わすstoneなのだから、これを「ひとつ、ふたつ」と数えてしまっては、そもそも意味をなさないのである。「数えることに意味がない」のではなく、「数えてしまっては意味を成し遂げない」と考えるべきだ。「一個の石を削って、一個の石から作られた石像」のようなばあいでも、The statue is made of a piece of stone.(その石像は、一片の石からできている。)のように、材料となった石の〈単位〉がいくつなのか、という発想になる。
なお、〈単位〉(unity)にはラテン語の「1」を表わすunusの語幹が用いられている(大西[162-3])。unityとはいわば「一-性」(one-ness)である。ラテン語のunusは、ロマンス諸語の〈不定冠詞〉に発展していき、フランス語のune、ドイツ語のein、英語のanの元になっている(oneとanは同根である)。unityをドイツ語ではEinheitというが、これの定訳は「統一」ということになっている(カント哲学の重要概念である)。「一」という文字が刻印されていることが重要なのであって、「単位」と「統一」のふたつの訳語があることは混乱の元ではないかとも思うが、「単」も考えてみれば「一」ということであり、うまい訳であるのは確かだ。
2つめの例文では、a stoneを投げる「彼」、投げつけらる「その男」、それを観察している「私」にとって、「それ」が〈単位性〉(一-性)を持っていることが明らかである。人はa stoneまたはtwo stonesまたはthe stoneを投げることは可能であるが、stoneを投げることはできない。考えることさえ不可能である。したがって、「石を投げる」という動作にとって、その石が〈可算名詞〉であることは不可避でさえある。
もう一例見ておこう:
1つめの例文は、「火、炎」という物質の性質に依存することによって、文を有意義な(意味のある)ものとして成立させている。fireという物理現象が先行して、煙という物理現象が後続する、ということは、少なくとも現在の地球上では単なる事実であって、「ひとつの炎」だとか「その炎」などは問題にならない。むしろ「とあるひとつの炎」などというものを考えてしまっては、この例文を意味あるものにすることができない。
2つめの例文では、「火事」という「数えないことにはそもそも意味を成さない」現象について述べている文だ。火事を消すとき、彼らは1件の火事を消しているのであって、「火事という概念」をこの世から抹消しようとしているのではない。ここでは、「森林火災」というものが、たびたびあって、そのたびごとに1件ずつ、消火活動を行っている、という「反復して行われる動作」について叙述している(現在時制の基本的用法)。だから、a forest fire(とある1件の森林火災)ではなく、forest fires(不特定多数の森林火災)を目的語にしているのだ。
最後に、coffee問題に戻ってみよう。
いずれも日常的によく使う正しい英語だが、解釈は様々である。ある辞書は、例文2の言い方は「注文するときのみ使用可能」で、このときのcoffeeは「コーヒー1杯」を意味する、と書いている。そのように解釈しても、一応は理解可能だ。じっさい、レストランでは例文2の言い方で注文するほうが圧倒的多数である。
例文1の言い方をしたばあい、数えることがそもそも不可能であるように思える「コーヒーという液体」を、cupという容器に入れて、つまり〈単位〉を持たせて扱うということが、話し手にも聞き手にも明らかである。これは誤解の余地がない。
問題は例文2の言い方だが、なぜ件の辞書は「注文するときのみ」と但し書きをするのだろうか。たとえば友人宅のリビングルームで為される「紅茶を淹れるんだけど、君たち2人は何か飲む?」というような会話の中で、Two coffees, please.といってはいけないのだろうか。これはおそらく、通じるだろう。つまり、「注文のとき」と同じ「効果」が発揮されるだろう。なぜなら、両者の間には、「これから飲むことになるコーヒーを入れた容器」(=単位)が暗黙の内に想定されるからだ。
これが、レストランでの注文というケースにおいて生じている、〈不可算名詞〉が〈可算名詞〉に性質を変える現象の正体だ。つまり、Two coffees, please.という「文」そのものは、いかなる文脈も特定しないが(たとえば「コーヒーの木」という意味なら〈可算名詞〉だから、園芸用品店で行われている正しい英語であるという想起も可能だ)、レストランでのウェイターと客の会話という場面であれば、その場面が「文脈」の可能性の幅を一挙に狭める。レストランでの注文という社会的な状況(これを「文脈」という)が、「文」ないし「単語」(ここではcoffees)の「ありうる意味」を制限していると考えて良いだろう。
我々がここで作り上げようとしている英文法にとって、〈名詞〉の分類は、以上の〈固有名詞と一般名詞〉〈可算名詞と不可算名詞〉の組み合わせだけでほとんど十分である。
しかしここで、学校英語の5分類との接続を容易にするために、『実践ロイヤル』から「体系的分類」を導入しておこう。
『実践ロイヤル』も、まず〈固有名詞〉と区別される〈共通名詞〉(common noun)を分離させている。『実践ロイヤル』がここでcommon nounを〈共通名詞〉と訳しているのは、学校英語で〈普通名詞〉と訳されるcommon nounと見分けがつくように、との配慮である。『実践ロイヤル』が〈共通名詞〉とよぶところのものを、我々は〈一般名詞〉とよんだのは、すでに見たとおりだ。
次いで、『実践ロイヤル』では〈共通名詞〉を〈可算〉と〈不可算〉に分けている。少し我々の立場と異なるが(我々の立場は、〈固有/一般〉と〈可算/不可算〉の組み合わせからなる4象限で〈名詞〉を分類するものだ)、〈固有名詞〉を〈可算名詞〉として使う事例は、高校生・大学受験生の水準ではやはり「例外」的な事例にあたるだろうから、さほどデメリットはないと考えよう。
第三に、『実践ロイヤル』は〈具象と抽象〉(concrete / abstract)という区別を導入している。意味合いは文字通りであり、見たり触ったりできる具体的なものを〈具象〉とよんでいて、概念的・抽象的なものを〈抽象〉とよんでいる。この区別は意味的なものであり、後で述べるように、学校英語の5分類との接続可能性をもたらす区別である。
さらに、〈共通名詞・可算・具象〉を〈個体と集合〉へと分けている。
以上の分類をテーブルで整理してみよう:
区別1 | 区別2 | 区別3 | 区別4 | 名詞の例 | |
---|---|---|---|---|---|
共通名詞 | 可算 | 具象 | 個体(普通名詞) | dog | (A) |
集合(集合名詞) | family | (B) | |||
抽象(抽象名詞) | difficulty | (C) | |||
不可算 | 具象(物質名詞) | cheese | (D) | ||
抽象(抽象名詞) | peace | (E) | |||
固有名詞 | Japan | (F) |
(※『実践ロイヤル』[330-331]の体系的分類)
テーブル1列目:まず、〈共通名詞〉と〈固有名詞〉が区別される。〈共通名詞〉とは、さきに我々が〈一般名詞〉とよんだところのものだ(この区別を我々は「態度的区別」とよんだ)。原則的には〈固有名詞〉を数えることに意味は無いため、〈可算・不可算〉の別はない(「原則的には」ということは、例外もある。具体例は〈固有名詞〉を論じた第8節の8-2を参照)。また、〈具象・抽象〉も〈固有名詞〉についてはほとんど問題にならない。なぜなら、対象が、具体物であるか抽象的思念であるかは、「名づけ」という行為にとっては関心の外であるからだ(「私は、この不快な感情に”AKB”という名前をつけた。」と有意義に述べることができる。ウィンストン・チャーチルが、自分のうつ病を「黒い犬」とよんでいたことは有名な話である。このとき「黒い」「犬」のそれぞれの単語をいくら分析してみても、そこに〈固有名詞〉の性質がいかなる意味でも存在しないことに注意しておこう)。さらに、「志賀直哉」も「白樺派」も同じように〈固有名詞〉であるから、〈個体・集合〉の区別も問題にならない。
テーブル2列目:〈共通名詞〉(くどいようだが、我々が〈一般名詞〉とよんだところのものである)は〈可算名詞〉と〈不可算名詞〉に区別される。この区別を我々は「単位的区別」とよんだ。
テーブル3列目:さらに〈具象〉と〈抽象〉にそれぞれが区別される。意味的な区別であり、この区別を入れることで、学校英語の5分類との接続が可能になる。このうち、〈不可算名詞〉の〈具象〉は〈物質名詞〉で確定する。〈抽象〉は〈可算〉であれ〈不可算〉であれ〈抽象名詞〉である。
テーブル4列目:〈可算名詞〉のうち〈具象〉は、〈個体〉と〈集合〉に区別される。このうち〈個体〉を意味するものが〈普通名詞〉であり、〈集合〉を意味するものが〈集合名詞〉である。ちなみにこの分類の瑕疵(「かし」というのは傷・欠陥のことである)はこの点にある。〈不可算〉の〈集合名詞〉があるからだ。
テーブル5列目:代表的な〈名詞〉があげられている。ここで注意すべきなのは、「単語」によってどこに分類されるのかが決まっているのではなく、「意味」によっているという点だ。difficultyは「困難、苦労」という意味なら〈不可算・抽象〉だが、「困難な事」という意味なら〈可算・抽象〉である。他にも、たとえば誰かが、自分の経営する店舗をdogと名付けたなら、このdogは〈固有名詞〉である。ある犬をdogと名付けたなら、このdogも〈固有名詞〉である(ただしこのばあいはDogと頭文字を大文字にしなければならない)。
ほんの少し後で、日本の伝統的な学校英語の分類を紹介するが、この「体系的分類」をつねに参照して欲しい。具体的には〈抽象名詞〉に関して、学校英語は〈不可算名詞〉と断定しているが、これは誤りである。また、〈集合名詞〉を〈可算名詞〉と断定しているのも誤りであるが、この点はこの「体系的分類」も同様である。
テーブル6列目にA~Fの記号を割り振ったが、学校英語の5分類にこれを当てはめると:
ということになるだろう。
注意して欲しいのは、我々がここでこの「体系的分類」を導入するのは、学校英語の5分類を「やっつける」という目的のための便宜であって、これが「正しい」と主張するためではない、ということだ。我々はあくまでも、〈固有名詞と一般名詞〉〈可算名詞と不可算名詞〉の2つの区別のみを有意義なものとして考える。
たとえば、この分類では〈集合名詞〉が〈可算名詞〉の下位に分類されているが、〈集合名詞〉には〈可算名詞〉と〈不可算名詞〉がある。〈抽象名詞〉を〈不可算名詞〉と断定する学校英語に対抗するのには成功しているが、その他の部分では、学校英語よりも「ややまし」というていどのものである。