私はこの文章を、高校生、または大学受験生の英語学習者に向けて書いている。このようなものを私が書かなければならない理由は、高校生に推奨することができる、日本語で書かれた英語の文法書・文法教科書が、現時点で存在していない、という点にある。
耳にタコができるほど言い尽くされてきたクリシェにこういうものがある:「日本の英語教育では、長年、文法教育が偏重され、読み書き中心の英語教育に偏ってきた。日常のコミュニケーションに活かせる英語教育に方向転換するべきだ」。これは端的に、間違っている。日本の英語教育の歴史の中で、まともに英語を「読む」ことができるようになる、あるいは「書く」ことができるようになる教育が行われたことなど、一度もない。英語で書かれた文章を読むこともできずに、どうして「日常のコミュニケーションに活かせる」ような高度な英語を学習できると考えているのだろうか。書くこともできないのに、なぜ話せると思うのだろうか。あるいは、そのような「文法批判」を繰り広げた直後に、明治時代に翻訳された化石のような英文を、どうどうと例文に使っている「英語学習書」が後を絶たないのだから、お笑い草だとしかいいようがない。
英語教育が小学校からはじまることは、歓迎すべき風潮だと思う。外国語の習得には、「習うより慣れろ」という方針でやったほうが、てっとりばやい時期というものがある。日本語を母語とする我々にとって、日本語を習得する過程は、たんに慣れること、真似ることの過程だったはずだ。ただし、この方針でやっていくには、「圧倒的な量に触れる」ことが欠かせない。小学校から圧倒的な量の英語に触れることで、ある程度は、英語の習得が確実なものになるだろう。ところが、そこそこの年齢になると、つまり母語に対する意識が発達した段階に入ると、「習う」すなわち「理屈で覚える」方が楽になる。その段階に入る時期は、中学生から高校生にかけての時期で、個人差がある。この時期に外国語の学習を開始するのは、母語に対する意識、つまり言語を対象化する意識の発達の個人差が大きいことから、微妙な問題になってくる。そこで「ある程度は慣れで、ある程度は理屈で」といういいかげんな、しかしそれ以外にはありそうにない折衷案を採用せざるを得なくなる。
ただし、こう言ったからといって、誤解してほしくないのは、「習う」方針で、つまり「慣れる」側面を少し犠牲にしてでも「理屈」で学ぶ方針で英語を学習したからといって、「圧倒的な量」が不必要になるわけではない、ということだ。特に大学受験のような場面では、「量がものをいう」ことになる。辞書を引いた回数、読んだ英文の数、解いた過去問の数に比例して、英語の成績は伸びる。これはいわゆる「根性論」ではないし、「精神論」でもない。合理的かつ効率的に、「楽して」英語の成績を伸ばしたいのであれば:
という「スモール・ステップ」が「最短の道」である。さらに、この過程を進めていくにあたって:
という作業を適切に行えば、英語の実力が伸びないことはありえない。「圧倒的な量」に触れるうえで、どの英語を読むのかを適切に選ぶということが、「習う」方針のやり方だ(「慣れる」方針であっても、「下手な鉄砲も数撃ちゃ」でやっていては成長は確実なものにならないから、やはり選ばなければならない)。
では、〈英文法〉というものが、英語の学習にどう役立つのかといえば(もちろん、大学入試で文法知識が問われるという側面もあるのだが)、苦手な分野を特定するのに役立つ、と一般的には言えるだろう。長文読解をしていて、どうしてもよくわからない文がある、あるいはいつも似たような文に出会ったときに、読解ミスをする、などという場合、(たんに語彙を知らないというのではないとすれば)特定の文法項目の学習が未定着である可能性がある。上述の「スモール・ステップ」の3項目のうち、「細分化して計画をたてる」ときに、仮に25ステップに細分化したとしよう。あなたがあるステップで躓いたなら、どこで躓いたのかを特定化して、そのステップをさらに3ステップに分ける。そこだけ階段の高さを低くして、着実に上昇していけばよいわけだ。
私が塾講師をしていたとき、どのようなレベルの生徒であっても、はじめに策定する計画は、25ステップぐらいのものになる。途中の微調整が入り、結果的には50ステップぐらいになるのが通常である。
〈英文法〉の効用には、特定化に加えて、共通言語の機能がある。塾講師として、英語をまったく学んでこなかった生徒に対してまず教えることは、基本的な文法用語である。もちろん日本人の英語学習者のための文法用語だから、これは日本語である。これは一見、遠回りの道のように見えるが、独学で学習するのでない以上(大学入学までは、独学で英語を学ぶのはやめておいたほうがよいだろう。一般論だが、受験生にとって、時間は無尽蔵にあるわけではないのだから)、コーチと学習者の使う言語が一致していることが望ましい(外国人から英語を習ってはならないという意味ではない)。「主語は名詞」と言ったときに「シュゴって何?」だとか「メイシって何?」だとかいちいち疑問に思っていたらきりがないし(その疑問を明確にコーチに伝達できればほとんど問題はないのだが)、「動名詞」という言葉を使ったときに、コーチと学習者で異なる意味内容(内包)を意味していたのでは、進む方向の同期がとれない。
ようするに、大学受験英語や高校英語を学習するうえで、〈英文法〉は、学習上の効率性や合理性を担保するための方便だといってもよい。方便、つまり、便利な嘘だ。たとえば「文型」という概念の意味を知らなければ、まじめに(誠実な態度で)書かれた英文の意味を、適切に理解することは、ほとんど不可能である。しかし、英語ネイティブが、あなたが学校で習った「文型」を意識して英文を書くことはほとんどありそうにない。〈英文法〉というルールがまずあって、そのルールに従うというやり方で英語が書かれたり話されたりするわけではない。その逆である。先にあるのは、あくまでも「語法」「コロケーション」ないし「コーパス」である。文法学者は、すでにある大量の「語法・コロケーション・コーパス」から、出現頻度の高い言語使用法を〈英文法〉として抽象化して、法則化する。だから、文法には必ず「例外」がある。文法は完璧ではない。「文法学者が100人いたら、100通りの文法がある」と言ったのは、著名な国文学者・小西甚一である。我々が中学・高校で採用している〈英文法〉は、「100通りある」文法の中で、もっとも「初心者フレンドリー」なものが選択採用されているというだけにすぎない。「文型」の単元では「英語の文型には5つある」と習うはずだが、「英文法業界」において、「5文型説」はマイナーな存在である(現時点では7文型や8文型がメジャーだ)。唯一絶対の「縛り=ルール」など、言語の世界には存在しない。たんに、社会的慣習が集積されているというだけである。この慣習に違反するような表現を、あなたがどうしてもしたいならば、すればよいだけだ。たんに、頭のおかしなやつと思われるか、テストでバツになるというだけの話であり、あなたがその英語で、あなたが意味したいことを、あなたにだけ通じるやり方で意味している、という事実には変わりがないのだから。逆に言うなら、あなたが意味したい意味を、他の誰かにも通じるやり方で言葉に与えたいならば、この「慣習」となんとか折り合いをつける必要がある。これは日本語であっても同じである。我々が〈文法〉を学習するのは、この「折り合い」のためのマスターキーを手に入れるためである。
我々がここで行うのは、我々の文法を作る、という行為である。高校生に推奨することができる英文法教科書が存在しない、と述べた。しかし先行研究を踏まえることは大切だ。代表的な先行研究を批判的に継承しつつ、どこをどう改めれば、より「文法的に合理的な」かつ「大学受験や定期試験で有利になる」英文法を作り上げることができるのか、探っていくことにしよう。
※文献表[1]~[4]の中で、間違いが「書いていない」のが[1]のみ、間違いが少ないのが[2]、やや「伝統より」なのが[3]、完全に「学校英語」なのが[4]である(この本の各章Part 1にはとても良いことが書いてあるが、肝心の解説=Part 2がNGである)。日本の高校生のほとんどは[4]を使用している(ほとんどの高校でこれが配布される)。ここで私は「学校英語」という言葉を悪い意味で使っている。日本の英語教育の歴史上「まともな、間違いのない英文法」が教えられたことは一度もない。すべての高校生・受験生に言っておきたいが、『Forest』は、大学に入学手続きをしたその日に投げ捨てるべし。
なお、[5]は50年近く前の本の文庫化で、単語の語源を知る一般書である。近年ではもっと実用的な「語源本」が出ているかもしれないが、入手しやすいのであげておく。[6]と[7]は、高校生が読んでいる必要はないが、本文中でしばしば参考にしたため、あげておく。
本文中での引用の仕方: